夜回り先生こと、水谷修さんの特別講演会をやっていました。
以前からこの人の事は知っていたのですが、
こういう形で彼の話を聞くのは、初めてでした。
学生の頃、少し“教育”という現場に触れた自分にとって、
いや、果たしてそういう気持ちで本当に取り組めていたのか、
“教育ごっこ”ではなかったのか、という自問自答をしながら、
子供を本気で“受け入れて”ゆく過程の、様々なエピソードを
聞いていました。(子供と本気で“ぶつかる”じゃないんだね)
家でボーっとワンセグ携帯のテレビボタンを押したら…
という感じだったので、話も途中からだったのですが、
フムフム…、と思ったことをいくつか。
・子供は不完全な存在なのだから子供である(オトナに対して)
・一人のオトナに裏切られたからといって、残りの十人のオトナを
信用しない、一人のトモダチに裏切られたからといって、
十人のトモダチを信用しない、というのは違う。
一人のオトナに裏切られたら、残りの十人を信用しよう、
一人のトモダチに裏切られたら、残りの十人のトモダチを
信用しよう。(コドモ達に対して。“しよう”、か、
“してみよう”、か、“してみれば?”かは記憶が曖昧ですが…)
・全てのことにやり直しがきく。ただし、ドラッグだけは後戻りできない。(もちろんみんなに対して。ただ、今暴力団とかが高校生や大学生をターゲットに魔の手を伸ばしつつあるらしい)
今年もまた保育士試験を受けよう、と思って勉強してるのだけれど、
“教育について”のくだりを、いくつか引用してみたいと思います。
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・日本語における教育は(中略)知恵を授け、
体を育てるという意味である…
・教育という言葉は、英語ではeducationであるが(中略)
educereに起源する英語のeduceは、引き出す、潜在する能力や
可能性を引き出し、発達させるという意味である。
このように英語で言う教育とは、
子どもの能力を引き出す意味から来ており、
そのためのさまざまな取り組みが教育活動ということになる。
・社会的に一人前になれば、教育は終わるというものではない。
・教育活動とは、子供の状態、すなわち、要求や興味・関心等を
良く観察し、見きわめ、それに対していつどのように
はたらきかけるのが効果的かを絶えず考え、判断し、
行動することが求められる、複雑で高度な知的活動なのである。
こうして、不十分な教育、必要以上の教育、誤教育の問題を
克服しなければならない。
(新・保育士養成講座編纂委員会編(2002)
新・保育士養成講座「第9巻・教育原理」より引用)
紀元前6世紀から、組織的な教育が行われている記録が
あるらしいのだけれど、教育が変わる→人が変わる→社会が変わる
→教育が変わる…だからね。“ココで終わり!”って言うのは
ないんだろうね。
自分を生きることもなかなか大変なことなのに、
人をより良い方向に持ってゆくというのは
もっと大変だということです。
いよいよ試験11日前だやべ。
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